山間を走る列車、「トンネルだぞ」とどこからか声がすると煙が入らないよう窓を一斉に閉める。
五十年以上前とたぶん変わらないみかん畑の景色の中、「みんなで窓を閉めたよね」と突然湧いてきた思い出に浸る。姉、兄たちとの昔を辿る旅。
和歌山県有田川河口近くの初島、生まれたばかりの私はここで三歳まで過ごした。父の転勤で二軒長屋の社宅暮らし。海辺近くの砂地で、庭の蛇口をひねると蟹が飛び出してくることがあった。時々「"爆弾"がきた」といわれ、お椀にお米を入れて空き地に行くと、バンと大音を立ててあられを作ってもらった。
雑草茂る社宅跡を見つけ、姉と兄の記憶を頼りに、我が家はこの辺と写真撮影をした。
松林の中にあった幼稚園が、当時のままの園舎で人家に囲まれていた。三十分以上歩いて通い、浜の子はかけっこが早いと言われていた。
当時三十歳前後の母は、子育てに大忙しだったはずだが、社宅でのコーラスやお茶稽古と、東京では味わえない若い仲間との交流を楽しんでいた。父とポチの散歩で砂浜に行くと、父は、自慢の白足袋ポチを海に投げ入れ泳がせていた。
大潮の時なのか海水が引くと、浜の前に横たわる"かるも島"へ歩いて渡ることができた。大人も子供も皆で楽しみに出かけたと姉が懐かしむ。
その島へは、今ではコンクリートの迂回路ができいつでも歩いて行くことできるようになっていた。砂浜は無くなり海を深く掘り桟橋ができていた。"かるも島"から、昔の砂浜と社宅の方角を目で探った。はじめて気がついた。いつもかすかな思い出は海の方ばかり見ていたが、実は、わが町のすぐ後ろは小高い緑の山々で囲まれていたのだ。自分が、なぜ、山の見えるところで暮らしたいという思いを持ち続けてきたのが不思議だったが、はじめて合点がいった。これが原風景にあったのだ。穏やかな海と、海を取り囲むようななだらかな稜線、その間で営まれる人々の暮らし。若かった父母の生き生きとした日々がここにあったのだ。いちばん一緒に来たかった父母の存在に包まれるように旅を続けた。
(掲載日:2009/11/30)