MENU
Magazine
2009.02.19

おかしらの予言:15年後のSFC|大西祥平(健康マネジメント研究科委員長)

私が慶應義塾大学医学部を受験したのが1971年でした。それから現在まで38年間の内、慶應という環境の外で暮らしたのは横浜市民病院の3年弱でした。ですから35年間はずっと慶應の中にいた井の中の蛙です。慶應大学医学部学生と医師として15年間、スポーツ医学研究センターの教員として20 年間、そして最後の5年間は重なって健康マネジメント研究科におります。15年後のSFCというタイトルですが、SFC創設当時の様子は私自身は直接見ておりませんでした。ちょうど信濃町に15年間おりましたので、過去を振り返ってみようと思います。その当時の信濃町から15年経つとどのようになったか。今の信濃町との比較はありません。1971年から1986年までのことです。

入学当時、木造家屋の教室があったのには驚きました。また入学時の病棟は現在も現役として使用されています。唯一大きく病院機能として変わったのは11階の新棟が昭和60年代に建設されたことです。さらに診療機能にはネットワークが配され事務会計処理、および診療においてのIT化大きく進んだことが、この15年間においての変化としてあげられるでしょう。こういった、病棟や診療システムの変化とともに医師や看護士など診療に関わる人の変化もあったでしょうか。白い巨塔という世界はこの15年間変わることはありませんでした。これは良きにつけ悪しきにつけです。若い、新米の医師は先輩の指導医の先生に徹底的に教育されました。徒弟制度と言っても過言ではないと思っています。昼食時間に病院内の食堂で食事をしていた時に先輩の先生に「食事をしている暇があるのなら病棟で診療をしろ」と怒鳴られました。しかし、その方は最も若手医師の信頼の厚い先生として尊敬をしておりました。今は、このような名物医師はいなくなってしまったように感じています。互いの信頼関係は非常に強いものだったと、また看護士の方ともそうであったと記憶しています。今、やたらとコミュニケーションが大切であるといっていますが、その当時は自然に構築されていました。

今の私は多くの学生と共に勉強しています。わたしの事を院生がどの様に感じているのか解りませんが、院生とのつながり方には、以前の昔のようにはいきませんが、ストレス無くつきあってくれる様努力をしているつもりです。これを読んでくれた院生に意見を聴いてみたいと思います。

建物が新しく変っても中に棲む人の心の有り様が大切だと自戒しています。

(掲載日:2009/02/19)